南北朝時代の公卿である花山院信賢は、南朝に仕えて栄達したが、具体的な事績は不明である。嘉暦3年(1328年)に正四位下に申叙されるが、母の家柄が低く、父が流罪で客死したため、昇進に苦労したと考えられる。北朝で公卿に列した形跡はなく、南朝での活動が中心であった。『新葉和歌集』に前大納言として1首を残し、南朝での活動を裏付けている。やがて大納言の極官に至り、辞職・出家したとされる。最期については諸説あり、確証はないが、元中7年/明徳元年(1390年)に卒去したと伝えられる。子の師重は東国に下り、青山を家名とした。











