戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。元亀元年(1570年)、兄の死後、甥・長治の後見を務めたが、弟・重宗との不和が生じた。天正5年(1577年)、織田信長の部将・羽柴秀吉が播磨国に入ると、長治が信長に従うも後に離反。吉親はこれに関与し、謀反の元凶とされた。天正6年(1578年)には秀吉の陣営を襲撃するも敗北。天正8年(1580年)、重宗の勧めを受け切腹を決意するが翻意し、家臣により殺害された。その首は信長の実検のために運ばれた。妻は自害し、子供たちもその手で命を絶たれた。一説では子の一人が生き延び、後に加藤嘉明に仕えたという。









