室町時代中期の武将で、兄・赤松満祐と共に赤松一族の中でその武勇が知られていた。応永31年(1424年)には細川持之の屋敷で家臣を殺害し、将軍足利義持から切腹を命じられるも逃亡。嘉吉元年(1441年)、足利義教暗殺事件である嘉吉の乱に関与し、甥と共に義教の接待を行い、事件の主導的役割を果たす。その後、山名宗全の討伐軍に敗れ、美作口を守るも脱出。李氏朝鮮に渡るが、文安5年(1448年)には日本へ帰国。肥前での戦いに敗れ、播磨に逃れるも居場所を失い、河内の畠山氏を頼る。しかし幕府に潜伏先を知られ、最終的に自害した。享年49。首級は京都に送られた。











