出羽国新庄藩の第2代藩主として、寛永17年(1640年)に生まれる。若年での家督相続に困難があったが、慶安3年(1650年)に相続を許される。藩主権力を強化するため、家老の片岡理兵衛一族を処罰し、税制整備や領内総検地など多くの改革を実施。藩政は60年にわたる治世で安定化し、新庄藩の最盛期を迎えるが、経済政策の影響で財政は末期に悪化。宝永7年(1710年)に隠居し、享保7年(1722年)に83歳で死去。長松山万年寺を改名し、そこに葬られる。男色好きを指摘される一方で、文人や学者を登用し、文化面でも影響を与えた。

