江戸時代中期から後期にかけて活躍した旗本で、大坂西町奉行を務めた。松前広居の次男として生まれ、佐久間信賢の娘を娶り末期養子となる。安永元年(1772年)、17歳で家督を継ぎ、翌年には大番に列せられる。天明8年(1788年)に大番組頭に昇進。寛政5年(1793年)には御徒歩頭となり、同年末には布衣を許される。寛政6年(1794年)、西の丸御目付に転任し、寛政9年(1797年)には将軍継嗣・徳川家慶の西の丸入りを世話した功労で賞賛を受ける。享和元年(1801年)から大坂町奉行を務め、文化5年(1808年)に持弓頭となる。文化11年(1814年)に死去。『寛政重修諸家譜』編纂時の当主で、神田雉子町と本所永倉町に屋敷を構えた。








