江戸時代前期の武士であり、江戸幕府の目付を務めた。延宝3年(1675年)に次兄の養子として家督を相続し、小普請となった。天和2年(1682年)、長兄から信濃国伊那郡の700石を分知される。元禄10年(1697年)には目付職に就任し、同年の日光山地震の検視を行った。元禄14年(1701年)の赤穂事件では、赤穂藩主・浅野長矩の刃傷事件の調査を多門重共と共に担当し、さらに騒動の鎮静化を命じた。元禄16年(1703年)に目付職を解かれ、小普請に戻った後は無役のまま正徳5年(1715年)に没した。法名は遊閑で、深川の長慶寺に葬られた。

