寛永18年(1641年)、徳川家綱附きの小姓となる。慶安3年(1650年)に西の丸の徒頭に転任し、廩米500俵を与えられ、儀式では布衣の着用を許される。明暦3年(1657年)、小姓組番頭となり周防守を名乗る。万治2年(1659年)、兄から俵米5,000石を分知され、寛文4年(1664年)には信濃国に替地される。寛文11年(1671年)、不遜な発言を理由に大番頭を解任されるが、延宝6年(1678年)に復帰。天和2年(1682年)に丹波国氷上郡2000石を加増され、知行は7000石となる。元禄7年(1694年)、江戸で没し小石川伝通院に葬られる。





