江戸時代後期の高家旗本である。大和国、河内国、摂津国内に3122石余の采地を有した。文化7年(1810年)に家督を継ぎ、文化11年(1814年)に高家となり従五位下侍従に叙任された。文政10年(1827年)に従四位下、天保8年(1837年)には従四位上に昇進。天保13年(1842年)に高家肝煎に就任し、嘉永2年(1849年)には少将に任官。嘉永5年(1852年)に没し、子の義勇が家督を継承した。正妻は上杉治広の四女祇子で、彼女の養祖父上杉治憲が婚姻に際して手紙をしたためた。後妻には祇子の妹増子や本多忠顕の娘がいる。










