高家旗本として活躍。寛保2年(1742年)に父の死去に伴い家督を相続。延享3年(1746年)には将軍徳川家重に御目見し、表高家衆に列する。宝暦12年(1762年)、高家職に就任し、従五位下侍従・大和守に叙任。その後、従四位下山城守、さらに従四位上左少将へと昇進。安永9年(1781年)には高家肝煎となるが、文化5年(1808年)に解任され、高家末席となる。文化7年(1810年)に隠居し、養子の信義に家督を譲る。文化12年(1815年)に89歳で死去。正妻は畠山義紀の養女。養子信義を含め二男一女をもうけた。











