江戸時代前期の米沢藩に仕えた山浦光則は、日本史上唯一の「キリシタン公卿の殉教者」とされる。中納言・猪熊季光の次男として誕生し、初めは磯野九兵衛と称した。キリシタンであったため、寛永11年(1635年)に迫害を避けて妻子と共に京都から米沢へ移住。従兄の米沢藩主・上杉定勝を頼り、米沢藩において采地1000石を受け、山浦家を再興した。しかし、定勝の死後、幕府の命により承応2年(1653年)、米沢極楽寺で斬首された。遺体は伯母の墓の隣に葬られたといわれ、現在も供養塔が残る。妻子は免罪され、息子は僧となり、娘たちはそれぞれ嫁いだ。







