平安時代末期の僧侶である信実は、興福寺の権寺主、寺主、上座を歴任し、別当の覚晴の死後に寺務を掌握した。彼は「日本一悪僧武勇」と称され、大和国内で同族の源親治と抗争した。天養2年(1145年)には興福寺の大衆を率いて金峯山を襲撃するなど、興福寺の武装化の中心的存在として活動した。藤原忠実、頼長父子と深い関係を持ち、保元元年(1156年)の保元の乱では崇徳上皇方に加勢。乱後、南都に逃れた忠実を守護し、朝廷から挙兵の疑いをかけられる。所領を没収されたが、保元3年(1158年)には法橋に任ぜられ、朝廷から一目置かれる存在であった。











