戦国時代の武将で、尼子氏の家臣。出雲源氏の嫡流である塩冶氏の養子となり、永正15年(1518年)頃には「塩冶彦四郎興久」と名乗っていた。父・尼子経久の意向を受けて、尼子氏の勢力拡大を図る一方、塩冶氏の権益維持にも努めた。享禄3年(1530年)、経久に反乱を起こし、出雲西部の国人領主らを巻き込んで尼子氏と対立。享禄4年(1531年)には和睦が成立したが、反乱は継続。天文3年(1534年)、備後国で自害し、乱は終結した。この反乱により、尼子氏の出雲支配体制の問題が露呈し、後の宗家権力基盤強化に繋がった。











