肥前鹿島藩の第2代藩主で、後に5000石の旗本寄合となった。寛永元年(1624年)に家督を継いだ後、徳川家光の上洛に従うなど幕命を果たす。寛永13年(1636年)、本家の佐賀藩主で伯父の鍋島勝茂から養子を迎えるよう求められるが、31歳で嗣子がいない中、弟を跡継ぎに考えていたため拒否。しかし、勝茂の圧力で養子を迎え、翌年に長男が誕生したことで対立が激化。寛永19年(1642年)、圧力に耐えかねて藩主の座と領地を捨て、鍋島本家と義絶し江戸に去る。その後下総矢作5000石の旗本として幕府に仕え、書院番となった。貞享3年(1686年)に81歳で死去。





