文政12年(1829年)、家督を相続し小普請組に入る。天保6年(1835年)、渡辺崋山の門人となるが、崋山の蟄居により活動が制限される。天保12年(1841年)、高島秋帆の指導で西洋流砲術を学び、塾を開いて普及に努める。嘉永6年(1853年)のペリー来航時、久里浜で洋式歩兵の指揮を執る。門弟は1,200人を超え、幕末の軍事改革に貢献した。安政2年(1855年)、鉄砲頭に任命され、翌年には講武所の砲術師範となる。文久3年(1863年)、歩兵奉行に就任するが、元治元年(1864年)に解任され、再び砲術師範に戻る。明治7年(1874年)に死去し、東京都渋谷区の東北寺に葬られる。




