江戸時代中期の公卿で、従一位・右大臣に至る。寛延元年(1748年)に叙爵し、宝暦6年(1756年)に従三位となり公卿入り。権中納言・権大納言を経て、明和元年(1764年)には大歌所別当や踏歌節会外弁を務める。皇太子英仁親王(後の後桃園天皇)の春宮大夫を明和5年(1768年)に拝命するが、明和7年(1770年)の親王の践祚に伴い辞任。安永4年(1775年)には内大臣に任じられ、寛政2年(1790年)に従一位に叙される。寛政8年(1796年)に右大臣就任も辞職し、男子が相次いで死去したため、左大臣二条治孝の三男を養子に迎え、西園寺家を継がせた。これにより、藤原公季の男系血統は断絶した。











