戦国時代の武将で、大内氏の重臣として大内義興、義隆の2代に仕える。長門国守護代や評定衆を務め、家中随一の大身の重臣となる。天文9年(1540年)の吉田郡山城や同11年(1542年)の月山富田城の戦いに参陣し、武功を立てるが、義隆との関係は冷却化。天文20年(1551年)の大寧寺の変では陶隆房を支持し、義隆からの和睦要請を拒否する。後に隠居し、天文23年(1554年)に死去。武将としての信望が厚く、文化人としても知られ、フランシスコ・ザビエルとの交流もあった。彼の死後、内藤氏一族は分裂する。墓所は山口県山口市の善生寺。興盛の血筋は毛利氏の家臣として存続した。












