戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した武将で、豊後大友氏の家臣。大友義鎮(宗麟)の娘を妻に持ち、その偏諱を受けて鎮実と名乗った。活動の記録が見られるのは元亀元年(1568年)頃で、大叔父・高橋鑑種の謀反鎮圧に出陣している。この頃、一萬田氏の家督を継いだと推測される。翌年、立花山城の守備を命じられたが、毛利氏の妨害で入城できず、城外で龍造寺勢力を牽制した。立花城で毛利勢を破り、負傷するもその功績で感状を受け取った。1570年代後半には大友氏の重臣となっていたが、天正15年(1587年)、義兄の大友義統により自害を命じられた。これは一族の謀反による巻き添えとされる。






