鎌倉時代後期の公卿であった日野資朝は、才学によって上級貴族の公卿に昇進した。正和3年(1314年)、持明院統の花園天皇の蔵人に任ぜられた。後醍醐天皇の親政が始まると側近として重用されたが、このことで父と対立した。元亨4年(1324年)、倒幕計画を疑われ鎌倉へ送られ、佐渡島へ流罪となった(正中の変)。元弘2年(1332年)、佐渡で処刑された。資朝は茶会を主催し、文化史上で大きな役割を果たしたとされるが、『太平記』では討幕計画の一環として否定的に描かれている。徒然草には彼の大胆さを伝える逸話が記されている。











