室町時代の公卿である東坊城益長は、参議・東坊城長遠の長子として生まれた。応永27年(1420年)に従五位上に叙され、その後も昇進を続けた。若くして足利義教に不興を買い処分されることもあったが、嘉吉の改元を勧進し注目を集めた。文安3年(1446年)には参議に任じられ、後花園天皇の生母の院号や後土御門天皇の御名を勧進するなど、侍読としての功績が評価された。康正2年(1456年)、菅原氏で道真以来の権大納言に任ぜられたが、2年後に辞任。その後も天皇の侍読として活躍し、文明6年(1474年)に68歳で薨去した。三条西実隆に「譜代の鴻儒・当時の碩才」と称され、その死を惜しまれた。











