戦国時代、甲斐武田氏の家臣として活躍した穴山信友は、御一門衆の一員であった。信友は、甲斐国南部の国人領主である穴山氏の当主として、武田宗家と良好な関係を築きつつ、今川氏との外交ルートも維持した。天文10年(1541年)に晴信(信玄)が信虎を追放すると、信友は武田氏の信濃侵攻に参加し、様々な戦いで活躍した。文芸にも親しみ、天文13年(1544年)には冷泉為和の歌会を主催するが、酒好きとしても知られ、交渉が不調に終わることもあった。永禄元年(1558年)頃に隠居し、隠居後も今川氏との外交を続け、永禄3年(1560年)に死去した。墓所は南部町円蔵院。信友の肖像画や夫人の肖像画は、当時の工房で制作されたと考えられている。











