越前敦賀藩の第7代藩主として、天保4年(1833年)に家督を継ぐ。若年寄を3度歴任し、文久元年(1861年)には加増されて城主格になる。安政6年(1859年)、江戸幕府とロシアの交渉に参加し、樺太全土の露領化を拒否。藩財政難から本家に所領返還を試みるも、領民の反対で中止。万延元年(1861年)のヘンリー・ヒュースケン殺害事件後、イギリス公使との交渉相手となる。文久3年(1863年)、生麦事件賠償交渉に参加し、薩英戦争を予見。元治元年(1864年)には下関戦争の賠償交渉を行う。慶応3年(1867年)に隠居し、明治9年(1876年)に62歳で死去。幕閣として佐幕の立場を貫いた。
主な祖先
酒井忠毗の家系図・略歴 | 系譜で辿る日本史
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