越前勝山藩の第7代藩主である。寛政11年(1799年)に家督を継ぐが、その年に勝山城下で大火が発生。享和3年(1803年)には江戸藩邸も焼失した。文化8年(1811年)には天候不順による凶作で領内で打ちこわしが起こり、文化11年(1814年)にも百姓一揆が発生。天保期には天保の大飢饉が藩に大きな影響を与え、天保7年(1836年)には再び打ちこわしが発生するなど、多難な藩政を強いられる。文化13年(1816年)には奏者番、文政12年(1829年)から天保11年(1840年)には若年寄を務めた。天保11年(1840年)に48歳で没し、跡を六男の長守が継いだ。


