江戸時代中期の肥前国佐賀藩士である諫早茂晴は、諫早鍋島家7代当主として藩内で大名並みの知行2万6千石を持つ。元禄7年(1694年)に家督を継ぎ、藩主の偏諱を受け「茂」の字を拝領した。元禄12年(1699年)には藩主・鍋島綱茂により龍造寺四家が親類同格と定められ、藩政から一時遠ざかるも、鍋島吉茂が新藩主となると再び請役を担う。享保17年(1732年)に藩政から排除され蟄居を命じられるが、享保の大飢饉で領民を救ったことにより再び藩政に復帰。享保20年(1736年)に死去、享年56。菩提寺の天祐寺に葬られた。



