江戸時代後期の公卿である。左大臣・二条治孝の十一男として生まれ、実兄・九条輔嗣の養子となる。従一位・関白に任じられ、九条家の29代当主として活躍。安政5年(1858年)、日米修好通商条約の勅許を巡る問題で幕府との協調路線を推進するが、孝明天皇の不興を買い、関白の内覧職権を停止される。その後、幕府の援助で復職し、公武合体運動を進めるも、尊皇攘夷派の反発を受けて文久2年(1862年)に出家・謹慎を命じられる。慶応3年(1867年)に還俗を許され、明治元年(1868年)に准后宣下。明治4年(1871年)に74歳で薨去。絵をたしなむ余技も持っていた。墓所は京都市東山区の東福寺。















