肥後国人吉藩の3代藩主として、寛文4年(1664年)に家督を継ぐ。藩政においては土木工事に力を注ぎ、特に藩士の林正盛が自費で行った球磨川の開削工事を支援し、寛文5年(1665年)に完成させた。この工事により下流の八代までの船での行き来が可能となり、領内の発展に寄与した。貞享4年(1687年)には、真宗信者の集団自殺事件が発生。人吉藩は薩摩藩と共に真宗の信仰を禁止しており、密告によって信仰が発覚し、捕り手を向かわせる前に信者が入水自殺を図った。元禄16年(1703年)に63歳で死去し、跡は従弟で養子の頼福が継いだ。


