飛鳥時代中期から後期にかけて活動した豪族で、官位は大納言にまで昇進した。壬申の乱では大海人皇子側に立ち、功績を挙げたとされるが、具体的な活動内容は不明である。乱後に100戸の封戸を賜り、『万葉集』では「大将軍」と記された。天武天皇の代には中級官人として活動し、持統天皇の代には地位を上げ、高市皇子や多治比嶋と並び称されるようになった。大宝元年(701年)に薨去し、正広弐・右大臣を追贈された。死後、対馬での金精錬に関与していたことから、関係者に対して賞が与えられたが、後に詐欺であったことが判明した。



