江戸時代前期から中期にかけての越後国高田藩の世嗣。延宝2年(1674年)、伯父である松平光長の嫡子綱賢が死去したため、藩主世嗣に選ばれ、将軍徳川家綱から偏諱を受け松平綱国と名乗る。筆頭家老小栗正矩と永見長良ら重臣の対立から越後騒動が起こり、光長が処罰され高田藩が改易されると、綱国は備後国福山藩へ預けられた。赦免後、元禄6年(1693年)に廃嫡され、結城松平家から宣富が世嗣に迎えられる。廃嫡後は美作国津山で宮川御殿に居住し、宝永5年(1708年)に出家して更山と号した。享保20年(1735年)、74歳で死去。子孫は永見に改姓し、津山藩家老の家系として続き、明治3年(1870年)に松平へ復した。














