江戸時代前期から中期にかけての国主・外様大名である。安芸国広島藩の第4代藩主を務めた。延宝元年(1673年)、父の死去により家督を相続し、その後、将軍徳川家綱より元服の際に偏諱を受けて綱長と改名した。藩政は祖父光晟が後見し、元禄6年(1693年)に光晟が死去するまで続いた。元禄12年(1699年)には寛永寺本坊の造営に功績を残す。元禄14年(1701年)に発生した赤穂事件では、連座を恐れて赤穂浅野家に開城を迫り、赤穂浪士の討ち入りを防ぐために工作を行うも失敗。藩財政の行き詰まりに対処するため、知行削減や藩札の発行を行った。宝永5年(1708年)に広島で病死。享年50。
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